あなたのウェブ・ブラウザーでJavaScriptが無効になってますフランス語教室 ラブレフランス・フランスとは?

フランス語教室

ここなら絶対話せるようになる

フランスとは?

Chlodwigs

フランスはラスコー洞窟に始まる

長い歴史をもつ。
鉄器時代、現在のフランスに相当するガリアには、ガリア人およびケルト人が居住していた。
紀元前51年、ガリア人はローマ帝国により西暦486年まで制圧された。
ガリアを数百年間支配し、最終的には中世のフランス王国を建国したゲルマンのフランク人の襲撃および移住にガロ・ローマ人は直面した。
1337年から1453年までの百年戦争での勝利は国体を強固にし、絶対君主制の礎となった。
ルネサンス期、フランスは世界的規模の植民地帝国の第1段階を確立した。16世紀のうち40年近くの間はユグノー戦争に明け暮れていた。
第一次世界大戦において、フランスは三国協商の参加国としてドイツ帝国などの中央同盟国と戦った。
第二次世界大戦では連合国に属したが、1940年にナチス・ドイツにより占領された。
1944年の解放後、第四共和政が設立された。
翌年フランス国立行政学院が設立され、出身者が会計検査院、財務監督官、国務院(内閣法制局兼最高行政裁判所)などで活躍するようになった。
検査院出身者らが支配する官僚制は、民衆からエナ帝国と呼ばれた。アルジェリア戦争を経てシャルル・ド・ゴールが第五共和政を樹立した。
1950年代には原子力産業へ積極的に進出した。
技術は軍事利用もされている。
原子力部門における主要な会社には、パリバ系のINDATOMや、ロスチャイルド・パリ連合銀行系のCOFINATOME、パリ連合銀行・アルストム・シュナイダーエレクトリック・トムソン=ヒューストン(現・ゼネラル・エレクトリック)ほか多数合弁のFramatome(現・アレヴァ)などがある。
1960年代にアフリカの植民地を次々に独立させながら、北アフリカ諸国からCFAフラン圏にわたって金融・エネルギー面での利権を守った(新植民地主義)。
1960年代から1970年代にかけてフランスへ外資の波が押し寄せた(詳細)。
オイルショック以降、フランスの政治はコアビタシオンでねじれるようになり、ドゴールのときのようにふたたびソ連と西ドイツを相手として頻繁に交渉した。

正式名称はフランス語で、République française

日本語の表記は、フランス共和国。
通称、フランス。
また、漢字による当て字で、仏蘭西(旧字体:佛蘭西)、法蘭西(中国語表記由来)などと表記することもあり、仏(佛)と略されることが多い。
英語表記はFrance、国民・形容詞はFrench。
国名の France は、11世紀の『ローランの歌』においてまではさかのぼって存在が資料的に確認できるが、そこで意味されている France はフランク王国のことである。
一方で987年に始まるフランス王国 に、France という名前が用いられているが、これは後代がそのように名づけているのであって、その時代に France という国名の存在を認定できるわけではない。
また中世のフランス王は REX FRANCUS と署名している。
France は中世ヨーロッパに存在したフランク王国に由来すると言われる。
その証左に、歴代フランス王の代数もフランク王国の王から数えている(ルイ1世とルイ16世を参照)。
作家の佐藤賢一は、ヴェルダン条約でフランク王国が西フランク、中フランク、東フランクに3分割され、中フランクは消滅し、東フランクは神聖ローマ皇帝を称したため、フランク王を名乗るものは西フランク王のみとなり、フランクだけで西フランクを指すようになった、と説明している。
ドイツ語では、直訳すればフランク王国となる Frankreich(フランクライヒ)を未だにフランスの呼称として用いている。
これと区別するために、ドイツ語でフランク王国は Frankenreich(フランケンライヒ)と呼んでいる。
多くの言語ではこのフランク王国由来の呼称を用いている。

フランク王国の再編

聖レミギウスから洗礼を受けるクローヴィス 476年に西ローマ帝国が滅びると、ゲルマン人の一部族であるフランク族のクローヴィスが建国したメロヴィング朝フランク王国が勢力を伸ばし始めた。
508年にメロヴィング朝はパリに遷都し、メロヴィング朝の下でフランク族はキリスト教とラテン文化を受け入れた。
メロヴィング朝のあとはピピン3世がカロリング朝を打ち立て、カール・マルテルは732年にイベリア半島から進出してきたイスラーム勢力のウマイヤ朝をトゥール・ポワティエ間の戦いで破り、イスラーム勢力の西ヨーロッパ方面への拡大を頓挫させた。
シャルルマーニュ(カール大帝)はイスラーム勢力やアヴァール族を相手に遠征を重ね、現在のフランスのみならず、イベリア半島北部からイタリア半島北部・パンノニア平原(現在のハンガリー周辺)までを勢力範囲とし、ほぼヨーロッパを統一した。シャルルマーニュのもとでヨーロッパは平静を取り戻し、カロリング・ルネサンスが興った。
800年にシャルルマーニュは西ローマ帝国皇帝の称号をローマ教皇から与えられた。シャルルマーニュの没後、フランク王国は3つに分裂した(西フランク王国・中フランク王国・東フランク王国)。リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの見解によると、これらはそれぞれ現在のフランス・イタリア・ドイツの基礎となった。また、この時期に古フランス語の形成が始まった。
909年、クリュニー修道院が創建された。のちにモーゲージ関係史料を多数残した。
933年、アルル王国が成立した。
西フランク王国はロテール3世のときに群雄割拠し、987年にパリを神聖ローマ帝国に攻められるほど不安定であった。 987年、西フランク王国が断絶し、パリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選出されてフランス王国が成立した。カペー家に始まるカペー朝、そしてヴァロワ朝とブルボン朝は、戦争と家領相続を通じて次第に国を統一していった。カペー朝の場合、ロベール2世がブルゴーニュを攻め、アンリ1世が二度も国際結婚した。
ルイ7世は一回多かったが、最初の妻・アリエノール・ダキテーヌはヨーロッパの祖母と呼ばれている。
フィリップ2世は三度目の結婚でバイエルン貴族と姻戚関係となった。
1209年にアルビジョア十字軍が開始され、異端とされたオクシタニア(現・南フランス)のカタリ派を殲滅した。
その結果、カタリ派とともに独立性の強かった南フランスの諸侯も滅ぼされた。
南仏オック語圏は、のちにスペイン交易で栄えユグノーを台頭させる。
1223年に即位したルイ8世は、西フランク王家だったカロリング家の血を引くとされ、第一次バロン戦争へ介入してマグナ・カルタ制定のきっかけをつくった。
ルイ9世は第2次バロン戦争で諸侯を調停している。
フィリップ4世は1284年からナバラ王国で王となり、翌年フランスでも即位して新たな財源を次々と獲得した(フランドル支配・アナーニ事件・アヴィニョン捕囚・テンプル騎士団解散・三部会)。
黒死病の大流行が起こる直前の1337年から、フランスはイングランドとの百年戦争(1337年 - 1453年)を戦っている。
ジャンヌ・ダルクが活躍する一方、ヴァロワ=ブルゴーニュ家が断絶した。
戦争を通じて強化された王権は、1492年11月3日に賠償金を払ってイングランド勢力を大陸から退かせた(Peace of Étaples)。
同年10月28日、クリストファー・コロンブスがキューバに着いていた。
そこでフランスは、翌1493年1月19日、アラゴン連合王国とバルセロナ条約(Treaty of Barcelona or Treaty of Narbonne)を結び、ルシヨンとサルダーニャをアラゴンに返し、フランスのイタリア侵攻に関して中立を約束させた。
同年5月、フランス王シャルル8世が神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世を相手に、ブルゴーニュ継承戦争の講和としてサンリス条約(Treaty of Senlis)を結んだ。
吸収したブルゴーニュ公国を安定させ、ネーデルラント17州のうちアルトワ伯国とフランドル伯国に飛び地や諸権利を維持したのである。
1492 - 93年の動きは、つまるところアメリカを開拓する準備であった。
ネーデルラントからアキテーヌにかけて港が使えるようにしたフランスであったが、1494年のトルデシリャス条約へ国益を反映させることができなかった。
Napoleon

Louis_XIV ユグノーと絶対王政

1494年、シャルル8世がイタリア戦争(1494年 - 1559年)で苦戦するなか、オスマン帝国からカピチュレーションを取りつけた。
1534年、ジャック・カルティエがガスペ半島に十字架を建て、ヌーベルフランスを宣言した。
イタリア戦争は1559年のカトー・カンブレジ条約に結実した。このとき、スペインのフェリペ2世がフランス王アンリ2世の娘エリザベートと結婚した。
フランス内政がスペインの干渉を受けてカトリック政策を推進したため、1562年、宗教・金融摩擦からユグノー戦争が30年以上も続いた。
1571年、スペインはレパントの海戦に勝利し、カピチュレーションの仮想敵国となった。
スペインは1581年からポルトガルと同君連合となって英葡永久同盟に背いた。
ユグノーと結んだイギリスは、1588年にアルマダの海戦で内戦の原因であるスペインを破った。
1596年、フランスはイギリス・オランダと同盟した。1598年、ナントの勅令を発して内戦に終止符を打った。
1618年からの三十年戦争ではユグノーが優位となり、オスマン帝国がユグノーに厚いベトレン・ガーボルを支援した。1629年、リシュリューがユグノーと和解したため、それまで続いていた英仏戦争について1632年講和が実現した。
1631年、ベールヴァルデ条約を結んでスウェーデンを戦線に向ける一方、フランスはサヴォワのスペイン軍を攻撃していた。1635年、ようやくフランス本体が三十年戦争にユグノー側で参戦した。
ユグノーは1556年に南極フランス(英語版)(現・ブラジルのグアナバラ湾周辺)を、1581年にオランダを、1608年にケベック(Province de Québec)を、1612年に赤道フランス(英語版)(現・ブラジルのマラニョン州サン・ルイス周辺)をそれぞれ建設していた。南極フランスも赤道フランスもポルトガルに併合された。
また、ユグノーは他国の市民として各地に移り住んだ。
三十年戦争でアムステルダム銀行に悪貨が押し寄せ、オランダのユグノーは銀行貨幣保持者として損害を受けていた。
フランス国内では1569 - 1650年のシュリー・ルイ13世・マザランの治世で48人のユグノーが要職を占め、二人の財務総監バルテルミ・エルヴァルト(英語版、フランス語版)(Barthélemy Hervart, Barthélemy Herwarth)とジャン=バティスト・コルベールの活躍した1650 - 80年も31人のユグノーが登用されていた。

ローマ帝国の支配

現在のフランスに相当する地域は、紀元前1世紀まではマッシリア(現・マルセイユ)などの地中海沿岸のギリシャ人の植民都市を除くと、ケルト人が住む土地であり、古代ローマ人はこの地をガリア(ゴール)と呼んでいた。
ゴールに住むケルト人はドルイドを軸に自然を信仰する独自の文化体系を持っていたが、政治的には統一されていなかった。
紀元前219年に始まった第二次ポエニ戦争では、カルタゴ帝国の将軍ハンニバルが南フランスを抜けてローマ共和国の本拠地だったイタリア半島へ侵攻したが、ゴールには大きな影響を及ぼさなかった。
その後、カルタゴを滅ぼしたローマは西地中海最大の勢力となり、各地がローマの支配下に置かれた。
ゴールも例外ではなく、紀元前121年には南方のガリア・ナルボネンシスが属州とされた。
紀元前1世紀に入ると、ローマの将軍・カエサルは紀元前58年にゴール北部に侵攻した(ガリア戦争)。
ゴールの諸部族をまとめたヴェルサンジェトリクスは果敢に抵抗したが、ローマ軍はガリア軍を破ってゴールを占領し、ローマの属州とした。
ゴールはいくつかの属州に分割された。
そしてラティフンディウムが作られたローマの平和の下でケルト人のラテン化が進み、ガロ・ローマ文化が成立した。
360年にゴール北部の都市・ルテティアはパリと改名された。
5世紀になるとゲルマン系諸集団が東方から侵入し、ガリアを占領して諸王国を建国した。